テセウスの船
【内容】
元々ギリシア神話にある内容で、古代ギリシアの哲学者であり伝記作家であったプルタルコスがとりあげた。
テセウスがクレタ島から帰る際に使っていた船には合計で30分の櫂(オール)があった。船は長い間保管されていたが老朽化したため修理のため新しい部品が修理のたびにあてがわれていった。
そこでプルタルコスはこういった問題を提示する。
次々と古いパーツを新しいパーツに変えていったとする。最終的にすべての部品を交換し終わったとき、目の前にある船はテセウスの船と同じものなのだろうか?
それともこの古いパーツを組みなおして無理やり違う船をこしらえたとしたら、こちらこそテセウスの船なのだろうか?
【出典】『ギリシア神話』
【補足】
『中観』に鬼が身体のパーツをひったくっては別人のものにすり替えていき、最終的に頭もすげ替え「お前は誰だ」と聞かれたという話がある。
ちなみに人間の細胞も多くが死んで新しく造られたものに交換されている。
そう考えるとテセウスの船はまさに私たちの身体で起こっている問題ともいえる。
個人的な解釈を書いておく。
テセウスの船は「テセウスがクレタ島から帰る際に乗っていた船」であり、パーツを交換しながら形を維持するのはレプリカとそう変わらないと思う。
テセウスが乗っていたのはこういう船だったという説明には使えるが、あの時まさにあのテセウスを乗せた船は現存してはいない。あくまでテセウスが乗った船と同じモデルの船があるに過ぎない。
また古いパーツも、それから作られた別の船も当然「テセウスがクレタ島から帰る際に乗っていた船」ではありえない。
一度でも手を加えてしまったら、「あの時テセウスを乗せた船を改良した船」という別物にになったと考えるべきだろう。
そして私たちも常に過去の時点とは違う身体に乗っていることになる。その改良が成長か老化か分からないが移ろいゆく時間の中で同じものは一つとしてないのだろう。
改良がゆっくりと起こったために、かろうじて連続性を認められているだけかもしれない。アハ体験のようにゆっくりした変化は気づかないでいられるケースが多い。もし私の全細胞が一瞬にして別の細胞に置き換わったら自分が元々何者であったか気づけないかもしれない。
妄想はここまでにしておこう。